2006/04/07
心と生命(8)
〜育つと言うこと〜
「親はなくても子は育つ」というが、二進法の社会である今日、この言葉は死語に近いのではないか。生まれたとき、2兆だった細胞が60兆の細胞に増えて、この身体は成長するが、人としての精神や哲学を持った成長ではない。
深い親の愛情を礎として、思いやりのある社会の、広い愛がなくては人は育っていかない。
分子生物学的には、受精卵によって与えられたDNA(遺伝子)---生命の設計図によって、その受精卵から発生するヒトのすべてが決定されるという。
しかし、DNAという生命の設計図の基本設計はできていても、この生命が育っていく過程において、社会や家庭での組織同士の影響の変化で、DNAの設計図にはない調節も大自然は行うのではないか。
それは、遺伝子にも突然変異が起こったり、細胞分裂を繰り返し反復しているうちに、染色体の数の異常や形の異常も起こりやすくなる。
要するに、DNA(遺伝子)の基本設計通りには、私たちが成育するとは限らないというのが現実だ。
私たちの生命には予測のできない変化が起こるし、社会的環境因子(政治、経済、宗教、教育、戦争など)の比重は成育過程においてすごく大きいものではないかと思う。
おおかみ少女
1920年10月、インドのカルカッタ西南12キロにあるゴタムリという村で、おおかみ少女が救いだされ、世界的に大きなニュースとなった。
このおおかみ少女だが、生まれて間もなくおおかみに育成され、シングという牧師夫妻が、この村に伝道に行ったとき、人の化物が洞穴にいるという噂を聞かされて、発見されたと記録にはある。
しかも、二人のおおかみ少女で、牧師夫妻はこの二人の少女を自分たちが運営している孤児院で育てることにしたのだ。年齢はさだかでないが、推定8歳と2歳だという。
アマラと名づけた2歳の少女は問もなく死亡、カマラと名づけた8歳の方は、9年間孤児院で生活をし、17歳で病気(尿毒症)で死亡したとある。
シング牧師が詳しくつけた日記によると、顔かたちは人間だが、その行為は全くおおかみだったという。日中は暗い部屋の隅でウトウト眠っているが、顔は壁に向けたままで、ほとんど身動き一つしない。しかし、夜になるとウロウロと歩きまわる。夜中には、おおかみのように遠ぼえをしたという。
歩行は二本の足で立って歩いたりすることはできず、両手を両膝ではったり、両手と両足を使って走ったりしたとある。
牧師夫妻のあたたかい成育にもかかわらず、いっこうになつかなかった。ほかの子どもがそばに寄ってくると歯をむきだしにして、いやな声を発した。もちろん話しもできないし、言葉の理解も不可能であったが、3年程して両足で立って歩くようになったが、急ぐときは四本足で走ったという。
このおおかみの習性は死ぬまで続いたとある。
それでも、シング牧師夫妻の育成努力により、手を使って食べることもでき、喜びや悲しみの心の表現もでき、4〜5児くらいの言葉を使うまでになったという。
このおおかみ少女だけでなく、私たち文明人と未開の地に住む人とでは、脳の働きに大きな違いがある。自然環境はいうまでもなく、社会的環境の重要性が大きく影響している。
私たちの脳だが、生まれたばかりの赤ちゃんは約400gと、身体のどの部分よりも大きく、またその発育速度も、生後6か月で生まれた時の重さの二倍になり、7、8歳で大人の重さの90%に達し、その後は、ゆっくりと脳は大きくなっていく。そして20歳前後で完成、50〜60歳を過ぎると、脳はゆるやかに軽くなると、専門家は述べている。
脳の発達について
この連載第3回で詳しく述べたが、神経細胞と、そこから伸びる神経突起(軸索など)を一つの単位としてニューロンというが、情報伝達のために、このニューロン同士が絡み合って、脳の機能が発達する。神経細胞は生まれたとき、その数は完成しているので、再生はしないといわれている。しかし、最近の研究で、再生もあり得るということがいわれるようになってきた。
このことについては、後の章で述べたい。
神経細胞(ニューロン)同士がその配線を密にすることが、脳の発達だといえる。
従って生まれたばかりの赤ちゃんの未熟な脳は、部品としての神経細胞は出揃っているが、まだまだその配線がないということになる。
生まれてから3歳までを、模倣する時期といい、4歳から10歳くらいまでを、自分を主
張する時期(自我ができる)という。
この神経細胞(ニューロン)の配線は、3歳児までと、4歳から10歳くらいまでとでは、それぞれ違った脳の部位で行われているという。その速度も、前に述べた脳の重さのように、3歳児までと4歳から7歳児までは、そのスピードは大きいが、10歳を超えると、その配線はゆっくりと進められるという。
脳の専門家の時実利彦氏は、「人間であること」という著書(岩波新書)のなかで次のようなことを述べている。
「教育の目的は人間形成であるから、神経細胞を人間としての精神を持ち、人間としての
行動ができるように---従って、神経細胞の配線の過程である脳の発達に即した育成がなされるところに、保育、教育の科学性、近代性があるはずだ」
といい「人間は教育されなければならない動物である」と述べている。
今日、3歳から英語を学んだほうがいいとか、幼児に対するセミナーが盛んだが、真の人間形成としての教育はどこにあるかというと、その答えは難しい。迷うことが多い。
育児の自然性
聖母マリアが、幼いキリストを胸に抱いているその姿に、愛の原点をみることができる。
愛なくして人は育たない---そのことをしっかりと教示してくれる。そして私たち人間の生命の本質をも、そこに見ることができる。
誕生とともに母乳によって、子どもは育っていく。母乳はすばらしい。栄養のバランスがよくとれており、タンパク質は消化しやすく、エネルギー源として大切な糖質は、他の動物の乳より多く含まれているのだ。
分娩後数日間で分泌するが、初乳中の免疫グロブリンは、アレルギー症状や腸炎などに対する抵抗力をつけることになる。
一回の哺乳の間でも、はじめは薄いが次第に濃くなり、成分として脂肪が増えて食欲を調節するという。その味・風味の変化を赤ちゃんは覚える。
ここで最も大事な自然の仕組だが、母乳は乳首を吸われることで、母と子がその愛着を深めるとともに、乳首を吸う行為は、その神経反射から母親の脳下垂体を刺激し、プロラクチンとオキシトシンという二つのホルモンを分泌することだ。すなわち、プロラクチンは母乳をつくる大事なホルモンであり、またやさしさ(母性愛)をかもしだしすホルモンである。そしてオキシトシンは、乳腺の乳管を刺激して、お乳を乳房から分泌する働きを持っている。このオキシトシンは、血流にのって子宮に運ばれ、産後の子宮収縮(正常になる)させる働きもある。
さて、心の発育には、いくつかの問題点がある。
私の孫のことだが、2人の男の子がいる。
兄は小学生、弟は3歳児。この弟に問題が起こった。それは、母親が急用で、いたしかたなく、民間の一時的に幼児を預かってくれる所にお願いしたのだが、母親が迎えにくる数時間、泣き叫び通しだったという。預かった人は男性で、ふと不安になったが、どうにもならなかった。その後もう一回預けたが、「ママに会いたいだよ!ママに会いたいだよ!」とやはり泣き叫んだという。
このたった数時間のことで、孫は母親にしがみついたり、逆に反抗したり、母親を追う行為に異常さがでてしまったのだ。
現在、5歳だが、なんとか落着きをみせるようになったが、自己主張が異常に強いことがある。あの3歳の時、あの数時問のことが、恐怖心となって、脳にきざまれたのかもしれない。
生まれたての赤ちゃんは、母親とか父親とかいう意識は、いうまでもなく持っていないが、成長するにつれて、いつも自分に連続的にかかわってくれる人を、母(ママ)、あるいは父(パパ)というように意識しだす。
こうして、赤ちゃんの心は安定していくのだが、親の反応が不安定だと、心は動揺して、これから育つ自我ができにくくなると専門家は述べている。
このようなことから、赤ちゃんの安定した心ができるまでは、いろいろな人と無秩序に関わらないで、親なら親、あるいは主たる保育者が関わっているほうが望ましいということだ。
最近は、お母さんも働いており、生まれてすぐ(多くは生後8か月から)他人に預けるケースが増えている。その他人がいつも同じ人だったり、親とあまり感じの違わない人だといいのだが、親とまったく態度の違う人であったり、あるいは、二人、三人とつぎつぎと変ったりすると、赤ちゃんや幼児の自我の基本的な態度が固まらないという。
育児の専門家は、まだ基本的な人間関係のパターンができていないとき、保育機関、すなわち、子どもを預かるほうが、この点を十分に注意しないと、むきだしの競争関係に巻き込まれて、強い子は弱い子を、いつも押し退けるような習慣、弱肉強食が身についてしまうという。逆に弱い子は、自分を出さないことで身を守るようになり、自閉的に感情を表さなくなると専門家は指摘している。
親にとってはいいのだが、子どもにとってはマイナスになる面も大きいことを心得なくてはならないだろう。保育教育の重要さがそこにはある。
ユング研究者の林道義氏は、著書『心のしくみを探る。ユング心理学入門U」(PHP新書)のなかで次のように述べている。
(ユングCarl Gustar Jung---スイスの心理学者、精神医学者(1875--1961)最初フロイトの精神分析に共鳴、その後独自の分析的心理学を確立)
「赤ちゃんから少年少女と成長し、家族や社会の影響の中で、自我の価値体系というのが一応できてくる。ところが、この価値体系が明確になってくるということは、取捨選択するようになるということだ。
つまり、善し悪しを決めて、よいほうを選びとり、悪いほうは捨てることになる。自我がはっきりしてくればくるほど、取るものと捨てるものがはっきりしてくる。
また悪というものが、心の中に生まれてくる。このことは自我がはっきり形成されてきているということを示している。
心の中に悪いイメージが出てきて、それを憎んだり、攻撃したりするということは非常に大切で、それは自我が生まれつつあることの証拠である。」
とあり、この心の現象を十分に私たち社会は理解することが大事だといえる。
また影の自立---二重人格という項目で次のようにのべている。
「あまりにも否定が強いと、否定されているものが自立して勝手なことをやるようになって、別人のようになる。そしてそれが自立しきってしまうと二重人格になる。二重人格というのは、影がときどきその人の人格を乗っ取ってしまうことになる。このことで---その人間の人格で行動するようになる」
実際に私も多くの子どもをみているが、母親や父親から、常に「お前は頭が悪い、お前は駄目だ」と言われ続けていると、いうまでもなく親との関係はうまくいかず、中学や高校を中退して、家出をしたり、犯罪の道に走ってしまう例もある。また、そこまでいかなくても、その子どもは、時によって親に対する憎しみを心の中に持ち、それが生涯にわたるだけでなく、その親が他界しても、その憎しみは消えない。こんな例を多くみている。
とにかく、親が十分に愛情を注いでいないと、子どもの本来の心の育成が阻害される。
親に嘘をついたり、言い逃れをいったり、不良化することもあるのだ。
まず「体」から入る
前にも紹介したが、小児科医で「子どもの脳は肌にある」の著書山口創氏は、頭、体、心の三つ---まず体から入るべきだという。
早期教育(幼児教育)を、すべて否定しないが、その多くは親のためであって、その子どものためではないことが多いのではないか。
山口創氏は、その著書のなかでこう述べている。
「7歳から12歳くらいまでの時期は『具体的操作期』とよばれ、積み木など目の前の具体的な事物の操作なしには計算など、抽象的な操作はうまくできない。
しかし12歳以降の『形式的操作期』になると、目の前の事物がなくても、抽象的な言葉や数字の操作ができるようになる」という。この書物のなかで、私が気になったこと、危惧したことは、一見、子どもは熱心に勉強しているようでも、自発的な意思でやっているわけではない。こんなケースでは、成長する過程で、目的を見失い破綻し、「うつ病」や「燃えつき症候群」になる例を見受けるということだ。
人生の目的や生き方を持つためには、親の愛情あるしつけやきびしい教育の中でも、自分自身の主体性を持って、たとえばどんな小さな発見や解答をしたとしても、そのときには喜びをもって、受けとめてやらなければならない。
それを怠ると思春期や青年期になって、自我が混乱したとき心の病を発症することがあるということだ。 親と子の常にある対話は、お互いの心の成長になるのではないかと思う。
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