心は見えない

当社顧問の菊池一久【医事評論家】による健康コラムです。

Home 》 健康情報 》 菊池一久コラム一覧 》 コラム

菊池一久先生の写真

2006/04/07

心と生命(2)

〜心は見えない〜

心は見えない

この連載を執筆してから、心探しの毎日が、頭から離れない。
今日まで、私は生きてきたのではなく、生かされてきた。ちっぽけな私では、何一つできないことを可能にしてくれたのは、多くの人と出会い、その人たちの尊い心をいただいたからである。感謝している。
今の世の中、メランコリー(うつ病)になる人が多い。人との出会いが薄く、心を閉じてしまう。
メランコリーは時間の病だ。時は停止し、時は熟さず、未来は萎縮し、過去は無価値になってしまうという。すべてが喪失するという脅威の方向に心は流れる。閉ざされた心は、苦しく悲しい状態だ。大事なことは、今生が一夜の宿であることは誰れもが知っている。
だからこそ、時を停めずに多くの人と出会う努力をして歩いていくしかない。人は出会によって、自分一人ではできないことを可能にしてくれることがあるからだ。

心は見えない?

心について、岩波国語辞典をみてみると、こう記述してある。---心は体に対して(しかも体の中に宿るものとして)知識・感情・意志などの精神的な働きのもとになると見られているもの。また、その働き---とある。
精神医学では、心について、知(知性)・意(意志)・情(感性)の三つに大きく分けられていることが多い。
哲学書をみると、---生きる上で決定的に関わりを持つ物質ではない。それが心ではないだろうか---と記してある。

私たち人間の心は、意識、欲求、感情などから、さらに細く分ければ、感覚、表象、知覚、記憶、期待、欲望、情熱、空想、思考、本能などとさまざまなものが考えられる。
そしてその一つ一つに、さらにいくつかの要素が含まれている。例えば、情念には、愛、憎、喜悦、悲哀というように、私たち人間の高度に進化した心は、複雑な構成からなっている。
さて、自分の心の状態や動きを知り得るのは、自分だけである。他人には、その心の内なる働きは分からない。

心というものは、完全に私的なものだといえる。精神医学的には、このように「心」は、自己、自我のある場所として、私たち一人ひとりが閉ざされた脳のそれぞれの領域に存在させているという。心は、あくまでも内にあるもので、他からは見えないものだ。
しかし、人と人とが交流するとき、例えば、「医学技術論」をテーマに討論をしたり、グループを作って、一つの目標を達成する運動をしたりする時、人と人との交流から、心が表面化し、手にとることができることがある。
これらの交流で、他人の意見やテーマを自分自身の中に有効に取り入れることもできる(相手を知って己れを知る)。
すなわち、内なる心を開いたり、逆に意見や生き方の相違から、固く心を閉ざしてしまうなど、心は常に揺れ動く多面性を持っている。心というものは、本質的には不安定なものではないかと思う。
しかし、心がある決意をして外に向かったとき、ある場合はこの身体を通して能動的になることがある。
これらの働きは、主体性を持って感じ、知り、決意し、自覚し、考えたものである。
その心は、その人その人の人格の中心にある自己、自我からの行動であるともいえる。
この人格は、ある時、この現実の状況をはるかに超えて、超次元の世界に飛びだすことがある。ある医学生が不治の病にかかり、自分自身の生命が、そう長くないことを自覚していたが、この医学生は、(亡くなる数週間前、)医師となったときの自分を夢見て、多くの患者を診療している様子や研究テーマを、目を輝かして話してくれた。彼は死を超越した世界に、心が永遠の生を見たのであろう。

ある画伯の心の遍歴を見る

日本画の巨匠、東山魁夷画伯は、次のように自分自身の心の遍歴を記している。
---私自身の本質の中に、根深い病の素因があったかも知れない。少年期になると、心の不安定な状態がいっそう昂じてきた。(中略)
やがて画伯は病のために中学を休学して、家族から離れ、一人、淡路島の志筑という町の外れにある知人の淋しい一軒家で、二か月余り過ごしている。そしてさらに、こう述べている。
---両親や友人から長く離れて暮らしたことは、勿論、初めてである。しかし日常性を断ち切って、このような自然の中に孤独な自己を置くことが、どんなに私の心を休めるものであるかを知った。
天地の生命の自然の息吹きを受けて、私の心身は徐々に癒されていった。少年時代のこの体験は、私の生涯にとって重要なものとなった。その後、絵を描くことにより、熱心になり、殊に静澄な自然の中で、無心に絵筆を走らせている時に、心の救いがあることを感じた。
その後、東京美術学校(現東京芸大)の日本画科に学んでいたが、画家を志して歩み出した時から、私はこの道の嶮しさを予感していた。また一方では、父の商売が傾いて、前途に暗い影も見えていた。私はより深い精神的な心の支えが欲しかった。長く寒い冬に耐えて生きる山国の自然と人の姿に、私はそれを見出したのである。(中略)
父の家業の倒産、戦争を挟んで、両親の死と兄弟の若い死による全ての肉親との永別、画壇での不遇と生活の挫折、これら悲惨を経た末に、ようやく自然と自己の本来の連帯感を、最も純粋な形で作品の上に結実し得たのが「残照」である。
だから画家としての私の道は「残照」に始まり「道」を経て現在に続いてきたのだが、その前に長い試練の歳月が横たわっていたのである。(昭和54年1月記)---。
「東山魁夷全集T、風景巡礼T」(講談社刊)より一部転載。

自分自身の心、すなわち全人格が、自然との連帯感で、強く結ばれて、そこには身体の存在を超えた精神の世界を、自然を心のなかで描くことにより、自分自身の内なる心の世界を高度に創りだしたといえる。
生前、東山画伯にお会いしたことがあるが、小柄で温和な人だった。私たち人間の持つ、知と意と情が一つになって人生を貫いたといえる。

今日、対人関係が築き難い時代だという。
前に述べたように、人と人との交流が、心の世界を築く出発点であり、趣味、スポーツ、学習、仕事などを通して心の交流をし、自分自身のやるべきことを見つけることが大事だ。
人生は、やるべきことを精一杯心に強く意識して、毎日を生きていくことだ。そんな精神性を求めて、心を豊かにするだけでなく、生きる上での強さを掴むことで、自分自身の創造の道が開ける。
アルベール・カミュ
57年にノーベル文学賞を受け、60年に自動車事故で死亡した作家、アルベール・カミュは、フランスの植民地であったアルジェリアで1913年に生まれている。
代表的作品には「異邦人」「シジフォスの神話」「反抗的人間」があるが、この作家の心には、絶望曲に見えても希望を持って、不条理のただなか、生きるテーマを、生涯にわたって追っている姿勢が感じられる。
希望のないことと絶望とは異なり、拒否することと放棄することは違うという。
人の生と死の人生は、不条理そのものであり、このなかで生きるべきだと主張する。
自殺を否定し、戦争や死刑など人間が人間を殺すことに反対している。それは、不条理な関係の中に生きているからであり、人間の偉大さは不条理を認識し、一切の人工的な死に反抗しながら生きることだという。
「異邦人」は、偶然の殺人と死刑の判決をうけた主人公の心の遍歴を描いている。
死刑の判決で死を目前にして、全ての人工的な神父や弁護士、検事のかけひきやごまかしをはねのけて、凝集した時間に生きる主人公は、処刑目前に初めて非現実感から抜け出し、不条理そのものが人間社会であり、そこから孤独な幸福を感じとる心の世界を描いている。
人はみな不完全(不条理)な生きものだからこそ、互いに人工化せず心を寄せ合って生きていぐしかないのがこの世界だといっているように、私には思える。

精神の座は弱い?

人は感情の動物だとよくいう。
感情的というと理性を失って感情に走ることをいう。

この感情を、岩波国語辞典でみると、気持、心持、快、不快を主とする意識の、もっとも主観的な側面とある。
さらに感情を詳細にみてみると、情感、情緒、情熱、心情、悪感情、劣等感、機嫌、気持、心地、強迫観念、気分、喜怒哀楽などといえる。
心理学的にみると、自己の感情を、対象物の中に投影して、その対象物と自己との融合する事実を意識することにあるという。
前にも触れたが、心は知(知性)、意(意志)、情(感性)の三つに分けられる。
知は、感覚、知覚、記憶、想像、思考、創造性、学習などだ。
意は、時には身体的な条件のなかでの行動、時には身体的条件に反抗して、明確な目的を設定して、その実現に向かっていく、その行動であるといえる。
このとき自然性に従うこともあるが、盲目的に、実行されることも。そこには、人としての自律性や心の自由さがある。
情(感性)は、前にも触れたように、快、不快、憎しみ、悲哀、喜悦、怖れ、怒り、嫉妬、情念、差恥心など、多様である。

ここで注目すべきは、美に対する能力として、芸術や芸能が創作される感性は大事だ。
この感性が涸渇したとき、私たちの生活はいかにむなしいものになるか。しかし、この感性は個人色が強いものだ。あるときは複雑さも伴い、過剰になったりして、周囲を苦しませることもある。
それは心のポイント軸である人格、自己、自我をおかしくすることで、そこには時として人格の分裂が見られたりする。これは精神の確立には深刻な現象であり、心の病態ともいえ、人間性の喪失さがあることもある。(精神疾患といえる?)

ここで知は、精神の座は大脳新皮質を含む大脳皮質にある。およそ140億個の神経細胞がそこに存在しており、世界人口のおよそ4〜5倍もの数の神経細胞があるという計算になる。
しかし、この大脳皮質は、不安感や怖れ、ストレスなどの感情のたかまりには弱いというのだ。
脳の進化からみると、脳のいちばん下に脳幹があり、動物が生きていく上で重要な呼吸、拍動、食欲などを司っており、この脳幹は魚類以上の動物全てに備わっている。
この脳幹の上に大脳辺縁系が進化してくる。この大脳辺縁系は感情(性)を主に司っている。記憶や生殖行動の脳で、両生類以上の動物にある。そして、さらにその上に動物が進化すると大脳新皮質が非常に大きくなり、脳辺縁系や脳幹をスッポリと包み込んでいる。この脳については後で詳しく述べるが、専門書をみると、大脳辺縁系(たんに辺縁系ともいう)はリンビック・システムの訳で、リンビックは境界縁(ふち、ヘリ)などを意味する。
大脳辺縁系は系統発生学的にも古い爬虫類の時代からの脳(海馬など)と、次に古い哺乳類の脳(扁桃核、側坐核など)から成り立ち、動物脳といって、人間の本能的行動を統括する脳であるという。
この動物脳がしっかりしているから、人はストレスや不安など心の不安定さに強いのである。これに対し、大脳皮質は人間の脳で、どうしても動物脳に、何かの時に押しきられることがある。こんな点から、人は感情の動物だといわれることがあるのだ。

なぜ動物脳は強いのか

詳しくは次号で述べるが、神経伝達物質のセロトニンが、感情を司っているのではないかといわれ、このセロトニンが、大脳辺縁系の中に非常に多く存在する。 うつ病で自殺した人の脳は、このセロトニンの存在が非常に低いという。このセロトニンが多い方が、不安解消能力が強い。

取り扱いサプリメント一覧

マルチタイプ

ミネラル

セットタイプ

話題の栄養素

ビタミン