2002/10/17
5.歴史を振り返ってみることの大切さ (5)
〜社会保障の歴史〜
いよいよ公的健康保険が
大正11年に大企業を対象とした公的健康保険制度が公布され、昭和2年からそのサービスを開始した。
そして昭和13年に厚生省が設立され、その年に、国民健康保険制度が農村を対象に成立した。しかし、医師、薬剤関係などの強い反対で強制加入の構想は崩れ、任意加入となった。しかも、医療費の30%〜45%を本人自身が負担する制度なので、最も必要性のある自作農以下の貧困層には、十分な医療保険の機能はなかったといえる。
その後、農林、漁業従事者や中小商業者(個人)なども国民健康保険の対象となった。これは、軍事面からみて戦争遂行のため、その適用範囲を拡充したものであった。
この国民健康保険は、戦後、昭和23年に占領軍である連合国軍総司令部(GHQ)の指導で、市町村公営の原則を確立し、昭和34年、全面的な法改正によって市町村及び特別区に国民健康保険の設立が義務化された。
そして昭和36年4月に国民皆保険となり、誰もが保険料納入を一種の税として義務化させられたのである。
国民皆保険になるまでは、戦後のどん底経済から、経済成長がプラスになっていくなかで、多くの苦難の道があったが、幸にも、朝鮮戦争の特需が、日本経済再生への大きなきっかけとなった。
昭和20年8月15日、敗戦の日本
敗戦もう言葉では言えない大きな失望と生活苦がのしかかってきた。明日は全く見えない。私は当時旧制中学の二年生であった。
失業と食料難、衣服もなく飢餓だけが確実にやってきた。しかし学校へ通って勉強をした。学ぶことで何か一つの未来への光が見えるのではないかと思っていた。
詳しくは省略するが、ポツダム宣言による占領政策が実施された。連合軍とはいえ、アメリカ政府の政策が連合国軍総司令部(GHQ)を通して日本政府から出される間接統治であった。
資料によると、失業対策も貧困対策も、ほとんどこれといったことは決まらなかったという。社会保障の熱意は全くなかった。
ところが、昭和20年11月25日に軍人などに対する恩給支給停止がGHQからだされると、その対応として社会医療保険制度の再検討が話題となり、社会保険制度審議会が設置されたが、無力状態で何もできなかったとある。
この時、朝日新聞が、北は仙台から西は福岡市に及ぶ主要都市における餓死者の実情を報告した「始まっている死の行進、餓死はすでに全国の街に」という見出しで報道された。
この報道にGHQは、日本政府に至急、どう対応するか、詳細かつ全面的な計画を提出するよう命令した。
こうして、一か月後に、暫定措置として「生活困窮者生活援護要綱」を閣議決定して実施した。生活保護を必要とする304万人に対し、126万人に実施された。
暫定的でない本格的な生活保護法が、その後計画され、昭和21年8月に公布され、4年後に新しい生活保護法が実施された。しかし、その内容は、十分ではなく、一般国民生活水準の20%を下回るもので、生理的生活水準すら保障することもできなかったと資料にはある。
昭和21、22、23年と貧しいが、なんとか産業を起こし、商売を始め、一生懸命働いた。社会保険では、働く人の味方として、政府管掌健保が大変ありがたいものであった。しかし、その公的健康保険の財政も苦しく、何度か保険料の値上げや診療報酬の改定をして息をついていた。
とくに結核患者が多く、年間15万人前後が死亡し、患者数は150万人から200万人であった。国もこの結核対策には検診など、公衆衛生対策を実施したが、療養所に入りきれず、多くの若い人たちが死んでいったのである。
医師も貧しく、患者も貧しく、大気、安静、栄養という治療法しかなく、患者は辛い日々を送ったといえる。結核患者に対する食料配給を横流しする病院関係者もでたり、毎日が闘いで、結核患者自身の手で日本患者同盟が結成された。
特需が日本を再生
昭和25年6月から昭和28年7月、朝鮮戦争が勃発した。日本は、その兵站基地として、戦車の修理から、あらゆるサービス、輸送、建設などの要請をうけて、大企業の生産技術部門は息を吹き返した。
日本政府は、特別調達庁が窓口となり、兵器の修理、施設の確保、基地建設、輸送など全面的にお世話をした。兵站司令部は日本に、特需契約をし、昭和25年7月からの一年間で、物質では828億円、サービス部門では356億円という特需収入が日本に入り、国際収支の赤字の補填ばかりでなく、外資の蓄積をもたらし、この特需が呼び水となって一般輸出も増え、貿易収支が好転した。
この戦争は、北朝鮮が大韓民国に南下攻撃、アメリカは国連に北朝鮮を侵略国として即時停戦案を要求し、国連軍が結成された。北朝鮮軍は韓国軍を圧倒し、釜山にまで追いつめた。国連軍は、その背後をつく仁川上陸作戦に成功、中国国境へ追いつめたが、中国義勇軍が、北朝鮮軍に加わり、一進一退の戦況となり、昭和28年7月に休戦となった。
またアメリカのテコ入れで経済復興計画としての経済安定九原則などが発表され、日本の大企業は大きく成長し、新しい技術開発も大いに伸展したのである。
昭和27年4月に、対ソ重視で対日講和条約を結び、警察予備隊(自衛隊になる)が結成され、戦前の体制の復活が軌道にのったといえる。
企業主体の健康保険が伸びる
昭和30年代、企業活動は活発となり、新しい世界的企業も誕生した。
企業における健康保険組合が、数多く許可設立され、法定給付のみならず付加給付も充分でき、企業にとっては福利厚生上大いにプラスになった。治療費のみを支払うのではなく、脳卒中、高血圧、心臓病、胃がんなどの予防健診を進められ、やがて人間ドックをも行うようになった。
こうして40年代、高度成長は、医学技術や薬剤も大いに進歩し、CTやMRIなど、精密検査機器が導入され、外科手術も麻酔装置、人工心肺など飛躍的な進歩をした。
これも公的健康保険制度のお蔭である。健保がいち早く多くの治療法や検査、薬品を採取したからである。
しかし、その反面、健康保険の乱用、医師側も、水増し請求が当然と、不正を働く面も多く、やがて医療費は人口高齢化で年々、増えて、財政が赤字になった。
量から質の医療へ
医療の主体は患者自身であり、情報を開示され、さらに病気について学ぶことが大事だ。
そして必要により医療に患者が参画していく。
公的健康保険制度など社会保障は、私たちの生命を守る生活手段であり、自分たちの手で改革し守り抜くことだ。
そのためには、お互いに連帯意識を持ち、必要により目的税としての増税もやむを得ないという国民的コンセンサスを作り上げたうえで、社会保障を創造していくことが必要である。(おわり)
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