軍人の為の社会保障制度か?

軍人から始まった社会保障制度についての解説。

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2002/10/17

3.歴史を振り返ってみることの大切さ (3)

〜社会保障の歴史〜

昭和まで先延ばしされた社会保障制度

日本の近代化は、明治時代に入って驚くべき急テンポで始まった。激動、変革の時代に入った。
前回でも触れたが、一般庶民のための社会保障制度は実現しなかった。
徳川時代からの恤救規則という救貧施策がとられていただけだ。
この施策は、驚くなかれ、昭和7年まで実施され、その後、今日の生活保護法になっている。


ここで注目すべきことは、アジアの小国である日本は、欧米先進国の資本主義社会の植民地にならず、自らの手で欧米先進国の仲間入りを目指したただ一つの国であるということである。

そこには、強力な政府主導による欧米文明の導入、そして殖産興業による富国強兵の実現で、国力をつけるといった大変な政策をとった。
明治に入り、一般庶民の生活は、急テンポの変革で、インフレを招き、楽ではなく、苦しかった。

国は、とても社会保障制度などを考えるゆとりはなかったに違いない。
明治政府は、大きな主導権を握り、中央集権を確立し、土地租税(地租)の改正によって財政の確立を目指し、一方では、外国(欧米)勢力の進入にそなえるために、明治5年には、陸海軍の二省が設置されている。
そして国の安全堤防策として朝鮮、中国への軍事的警戒を強め、台湾に出兵をしている。(台湾出兵、日清戦争、日露戦争)

社会保障制度は軍人から

資料によると、明治9年に、年金にあたる「陸軍恩給法」が制度化され、軍人の死傷に対する社会保障制度である「生活保障措置」が法制化されている。
絶対主義的軍隊の確立策の一環として軍人の死傷に対する生活保障の措置がとられたのだ。
そして、明治14年、国会開設勅令で、中央集権的な軍隊、官僚機構の確立がなされた。

軍人勅諭の出された明治16年、陸海軍人恩給令の制度化、そして官吏恩給法も創設されている。
さらに明治23年、教育勅語がだされるとともに、「市町村立小学校教員退隠料(退職金)、遺族扶助法」と「府立師範学校長俸給並びに公立学校職員退隠料及遺族扶助料法」が制度化されている。
明治の日本国憲法で、天皇は「神聖にして侵すべからず」で、神としての存在であった。

国造りは、軍人、官僚、教育者が大きな核であり、民間企業や一般庶民は、国造りのために、これら核となる人々を助けたり、教えを受ける形で汗をかいたといえる。
また、一般庶民に対しては、多くの恩賜政策が国の制度外で、行われた。すなわち、皇室より御下賜金による疾病対策(救済)などが行われた。
公的医療保険制度の誕生か明治も30年になると、多くの人々が企業で働き、その生産向上のため職場での疾病や災害を、経済面からテコ入れする必要が生じてきた。


第三次伊藤博文内閣に、「労働者疾病保険法」が建議されたが、実現はしなかった。この法案は、かなり具体化しており、実施は確実視されていた。この法案には、明治31年7月1日から施行すべしという記述が明記されていた。
この労働者疾病保険法の必要性については、明治23年に、生命保険論という著書を執筆した藤沢利喜太郎氏や、明治25年には、当時、政府の衛生局長であった後藤新平氏が、「労工疾病保険法」と題する演説を議会で行っている。
しかし、時期早計と実現しなかった。政府投入の公的資金が、日露戦争の関係もあり、財政面の問題があったのだと私は思う。

医療制度はどうだったのか

前にも触れたが、公的医療保険制度など、医療制度はなかったが、医師に対する医療制度の基礎は、かなり早く、明治7年に「医制」がとられている。
全文76条からなる医制で、江戸時代からの漢方医学を捨て、代わるものとして西洋医学、とくにドイツ医学の導入を国策として決定している。
欧米に追いつく近代化で、西洋医学にもとずく医学教育の振興である。
中央集権として、国立の大学に医学部を頂点とした医師養成と医師開業免許制度などが樹立された。


ドイツの医師をはじめ多くの医学者が指導にあたって、医学レベルの向上をはかり、ドイツ、英国などに留学生を多く出して、最新医学の導入をはかった。
大学の医学部、その下に専門部(医学専門学校)などが設置されたが、医学部卒の医学士の社会的・経済的地位は高かった。多くの漢方医はその職を失った。
ここで注目すべきことは、医療という公益性の強いものを、自由開業医制度として、はじめて制定したことである。


このことは、社会的にみて公的医療保険制度の創設を難しくしたことでもあるし、実際、大正、昭和に入って、公的医療保険制度の創設に大きな反対があった。医療費を、公的保険制度で決められることへの反論でもあったが、医療体制の充実は大事だが、奥深くに経済の論理が根深くあることが、この制度を複雑化している。しかし生命を守るために、人間としての次元で、超えねばならないのだ。

資料によると、明治20年、医師数は3万6000人で、その半数は年間500円という高所得者で、その納税額だけで租税収入の約12%近くあったという。
明治時代は、多くの変革、インフレを呼び、諸対策がとられたが、公的病院の縮小や払い下げによって多くの医療機関や地方の医学校も廃止された。
これは、西南戦争後のインフレ対応に松方正義大蔵郷によって推進された行政改革によってである。
この時、住民の応援を得て、この対策に反対し、今日残っているのが京都府立医大であるときく。
資料によると、明治10年、官公立7、公立64、私立35の病院数が、明治42年には、全国890の病院のうち官公立はわずか97で残りは開業医による私立病院であった。


この傾向は大正、昭和と続いて、昭和12年には、一般病院の96%、病床数88%が、私立病院であり、医師の70%は、私立病院や診療所の開業医や勤務医である。
医学研究、医学技術と医療をつなぐ社会的仕組みが、医療体制なのだが、常についてまわる問題は、医療費なのである。
医療体制の奥深くには、医療費の支払能力があり、必要な医療を必要な人に受けてもらはなくてはならない。どうしても、公的な財政支出が必要なのだが、明治医制以来、医療収入で決算(独立)できない病院は持つべきではないという方針だっただけに、医療の理想と現実には常にギャップがついてまわる。
大正に入り、11(1922)年に健康保険制度が創設されたが、関東大震災により、実施は昭和2(1929)年になった。

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