健康保険

国民健康保険の制度はどのようにして誕生したのかを解説しています。

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2002/10/17

4.歴史を振り返ってみることの大切さ (4)

〜社会保障の歴史〜

医療保障は最近まで無かった

歴史的に振り返ってみて痛感することだが、疾病は、あくまでも個人の責任として、国の政策は進められた。一般国民の多くは、医療費の支払に苦しんでいたのである。
昭和に入って、公的医療保険制度が、大企業や官僚を対象として設置されたが、これなどは、国力のため、産業育成が第一で、そこで働く人々のみを対象にしたものだった。多くの国民には、なんの医療保険制度もなく、戦後昭和36年の国民皆保険制度の導入まで、公的な医療保障はなかったのである。

経済成長なくして社会保障なし

歴史的経過をみても、また今日のように財政が苦しい時代をみても、社会保障の権利とその内実は、あくまでも財源的裏付けのいかんによって規定付けされている。

したがって、国や地方自治体の財源環境がきびしくなったりすることで、その社会保障の存立の基盤がゆるがされる宿業を内包しているのだ。


日本など資本主義国家では、社会保障の核は、各種の公的医療保険で医療施策を実施し、公的年金制度で老後の生活保障の施策をしており、日本をみると、これら医療保険と年金制度は、密に連携していることがわかる。たとえば、企業で働く人々は、医療保険の加入と併せて厚生年金に加入するというようにだ。
今日、社会保障の核となる医療保険は、国民健康保険法、健康保険法、船員保険法、その他国家公務員及び地方公務員法、私立学校教職員法によって運営されている。老人については、老人保健法である。

年金保険については、国民年金法によって運営されている。
そして今日、高齢者介護については、40歳以上が強制加入する介護保険法によって運営されている。

ご存知のように、これらの公的保険は、私たちも加入させられ、一定の保険料を納めている。そして公的費用(税金)を一部分使って運営されている。
この公的保険によらず、税金を持って運営されている社会保障がある。
それは、身体障害者(児)福祉法などの社会福祉や、児童手当法など社会扶助手当、公的扶助の生活保護などがある。
これらは、公的保険制度の補完的な役割として施策されている。

大正11年、公的医療保険が

歴史的に振り返ってみると、医療保険制度が1922(大正11)年に公布、昭和2年からそのサービスが開始されている。
その内容だが、被保険者は、工場法と鉱業法の適用を受けている企業で働く常用従業者を対象とし、多くの臨時雇用従業者は除外されている。

保険料は、事業主と従業者が負担した。保険料は賃金の3%である。
保険給付(サービス)は、従業者の傷病に対する療養(現物給付)と労働不能に対する手当金が中心となっている。

なお、この給付は、あくまでも被保険者本人だけで、家族に対する給付はなく、支給期間は180日以内であり、当時、病とその医療費負担に苦しんでいた結核など、長期にわたる療養者には、あまり効果がなかったという。
この医療保険の対象者数だが、1934(昭和9)年の制度改正まで、総就業人口の3000万人のうち、わずか200万人で、一部大企業の従業者に限られていた。
資料によると、常用雇用労働者のほぼ50%をカバーするにすぎなかったとある。
社会保険制度は、疾病、労働災害、失業、高齢化などによる生活困難に対し、国民の生活を社会的に保険金と国の財政の一部を持って保障する制度であるのだが、この社会保険制度の一つである医療保険が実施されたのは、前にも述べたように、工場法、鉱業法において、労働災害を使用者責任として原則化していたが、このことも、この医療保険給付の対象としている。そこには、国力を高めるための企業主体の精神が、私にはそこに見受けられる。

昭和4年にアメリカに始まった経済恐慌の大波は、日本にも押し寄せ、昭和5〜7年の失業者数は、およそ300万人といわれ、発足後間もないこの公的医療保険は、失業者の増加で、被保険者数の減少と賃金率の低下により、保険料収入が大幅にダウンし、財政危機になったが、昭和9年頃から、経済状態の正常化から息をついたという。

当時の日本経済の状況はどうだったのか、その要点をみてみると、今日に通じるところがある。もちろん当時とは社会的、経済的、政治的環境条件は違うが、社会保障の力が弱まっていく実情は似ているようだ。
昭和4年、浜口雄幸内閣は、前者の田中内閣のとった積極策でなく、緊縮財政を強めた。


ドイツを除きヨーロッパ各国は、第一次大戦の痛手から立ち直りつつあり、浜口内閣は、経済的植民地政策をとらずに、未来の産業に力をつけることによる貿易により、日本経済の成長を打ちだした。そこで金本位制の復活を実現し、経済的基盤を固めるための金輸出禁止を解き、産業力の力による国力づくりを打ちだした。この方向は正しかったのだが、ニューヨーク・ウォール街におこった株価の暴落は、日本にも及び輸出貿易は急速に減退し、株価は下落した。(世界恐慌)
もはや一国だけの現象としておさまらず、資本主義社会は、世界に共通する市場経済で、もはや国際的なつながりを密に持たねばならないという時代に入っていたのだ。
浜口総理は、不況のなか、昭和6年に東京駅頭で狙撃をうけ、病状が悪化して命を落した。
このことで本格的な政党内閣は終わり、日本は経済力打開のために、軍事力による経済的植民地政策を歩みだしたといえる。

このような時代背景があったのだ。
そして昭和9年頃から、経済はやや持ち直したが、戦時への道でもあった。こんなとき、公的医療保険は、やがて戦時体制化の道で、その適用範囲が拡大、現業労働者以外、事務所、家族への給付も始まり、第三次産業従事者も対象化した。
満州、中国への戦時による経済進出が、日本経済の不況を脱してきたといえるが、これは国が滅びる戦争への道を歩みだしたといえる。
企業の公的医療保険も、戦時体制によりその給付対象が拡大したのである。

国民健康保険制度の創設

経済恐慌は、農村に波及。当時の資料によると、自作農、小作農の区別なく農業収入は激減している。
昭和7年の農林省の調査だが、収入が激減したが、その収入の50%以上が疾病の治療費であった。
多くの人々が、貧しさ故に病気になっても、医療費が捻出できず、受診できなかった。
福島県会津市の出身で医師をしている私の友人が、父親の時代、医者を呼ぶのは、死ぬ時である。それは死亡診断書が必要であったからだ。
貧しかったと言った。
このような農村の実態から、政府は、農家における医療費の重圧を回避せんと、昭和13年1月に設立された厚生省はその年の秋に、国民健康保険制度を成立させた。

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