社会保障の歴史について

戦争により、日本の社会保障制度はどのように変化していったのかを解説。

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2002/10/17

2.歴史を振り返ってみることの大切さ (2)

〜社会保障の歴史〜

戦争による近代社会の道

日本は、欧米に追いつくため、これらの欧米諸国とともに軍事力を使っての共存化を図った。
西南戦争のとき、政府の財政は危機的状態だったという。しかし、日清戦争に参戦して勝利し、この賠償金をもとに、かなりの無理をして金本位制度をスタートさせ、とにもかくにも欧米先進国と同じように資本主義国の仲間入りを果たしたのである。


明治18(1885)年初代の内閣総理大臣は伊藤博文である。こうして議会制度が確立されたのである。

そして、国際的には、前に述べたが、強力な資本主義国家である英国との同盟(日英同盟)を結び、日本の近代化が、特に英国の指導を受けて、急ピッチで進められた。とにかく、日本は、欧米先進国のあとを懸命に追ったのである。
こうしたなか大きな国際的危機に直面したのが、日露戦争である。
これはロシア国が、インドや現在の石油産油国の中東への南下を窺っており、英国は、このロシアの目を極東に引きつけようというアジア戦略によって、日露戦争が起こったのである。
日本は英国の代理戦争をしたわけである。


国家予算の7〜8年度分の外債を英国、米国が引き受け、戦費を作ったという。戦費は当時の金額で17億円、兵力動員は100万人とある。
こうして、この戦争は、ロシア国内の事情(ロシア革命)もあり、なんとか勝利したというのが事実である。戦争に勝っても15億円もの債務国となり、日本経済(財政)は苦しくなるばかりであった。

外貨をかせぐ産業革命

明治の産業革命、技術革命は、外貨を稼ぐ産業の育成やテコ入れで、資本主義国家を築かねばならないという国家主導型で進められた。

農村の若い女性たちは、身売りするかわりに紡績工場の女工に出ることになった。その勤務状態は、深夜作業を含む、一日12時間から15時間という過酷な労働と劣悪な衣食住で、多くの女性たちが、結核で倒れ、解雇され、農村の親元に送り返された。

この結果、農村での結核伝播が大きな社会問題になったのである。
このように多くの国民が近代国家作りのために貧困のなか、ある人は病み、また長時間労働の苦難に耐え、勤勉な日本国民は、欧米の技術力を習得し、日本独自の技術力の確立から、蒸気機関車や軍艦なども欧米に頼らず国産化する近代工業社会を築いてきたのである。

この道程は、欧米先進国に追いつくために、絶え間ない創意工夫、学習、切磋琢磨で、数々の技術革新がなされたわけだ。

社会保障は芽生えたのか

経済学の専門書には次のような記述がある。
「社会保障は資本主義体制の構造的な自己矛盾の産物として存在し、発展してきている。社会保障は資本主義社会の自らの課題なのである」
とあり、社会問題を緩和し、資本主義国家体制を維持存続させるための不可欠の出費として、社会保障を考えなければならないと述べている。


欧米先進国では、社会保障制度や救済制度が国によって異なるが、当時すでに確立されていたのである。
これは、単に資本主義体制の維持に必要不可欠だっただけでなく、脅威であった社会主義化にも対応する重要な課題であったのだ。
さて、日本ではどうだったのだろうか。


日本では、恤救規則という名の救貧施策がとられた。この恤救規則は古く、寛政4年(1792)年徳川十一代将軍、家斉の行った救民策が出発点である。
明治に入って手を加えられているが、その救済内容は、病気によってどうにもならない病人、70歳以上の重症者または老衰者、病気によって働くことができない者、13歳以下の幼弱者、極貧の状態にある独身者とその救済内容は一部の人に限られ、一般大衆の疾病者には及ばなかった。

驚くことは、この明治7(1874)年の恤救規則が、昭和7年まで続いていたことである。その後救護法となり、戦後、生活保護法となり、昭和25年にさらに改正され、現行の生活保護法になっている。
この恤救規則の費用は国庫の負担だが、市町村がまず負担し、市町村財源でまかないえない場合には府県財政により支出した。

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